死にたくなるのは仕様だと思ったら気が楽になった話~後半~

さて、後半です。
「死にたがり」は自分固有のものというより、集合意識に望まれて受け入れた設定で、
そうする(魂上の)理由がありましたよー
って話なんですけど、それを知ったことによって私はこう考えを切り替えることにしました。
(以下、SNSの投稿を引用)
(この時はまだ「死にたくなること」という言葉を使うのを避けて表現してますけどね)
そして実は今日、久しぶりのお休みを取ってぷあまな時代からのお付き合いの祐子さんや昌美ちゃんと薔薇を見てきました
薔薇を堪能したあと、カフェでお茶をしつつ様々な話の中で
あのセルフワークの顛末を伝えると
「ああでも、そうね。私たちは生まれながらに死に向かっていて、だからこそ深い所では「死にたい」と思っているのよ。肉体はどうしたって「死ぬように出来ている」のだもの。」
という話になり
ああ、そうなのかもしれない。と。
そんなわけねーだろ!
と怒られそうだなーと思うんですが、もちろん「生きたい」という気持ちも同じように持っています。
「死にたい」という感覚をどこかに感じ取っているからこそ、そうしないようにあれこれと見出そうとして
この世に鎹になるものがないかと探し出します。
それがまあ、人さまざまでゲームだったり、ファッションだったり、恋だったり、家族だったり。
でもこうしてみると本当に「生と死」が表裏一体で、「死にたい」は「生きたい」でもあるのかもしれません。
だから生きている以上、(もちろん個人差はありますが)感じてしまう感覚だとしたら
「死にたくなるのは仕様です」
ということなので、
「これをどうにかしなきゃいけない」
「こう考えるのは悪いことだ」
と思わなくて良くて、なんだか気が楽になった!と3人で頷き合うなどしました。
SNSに投稿した
内臓があるのとか、爪が生えてるのとか、そんなのと変わらない。
このくらいのものと捉えていれば、「あ、またそういうやつね」と引いて見ることも出来るのではないでしょうか。
薔薇を見に行った帰りの会話としちゃディープですねw
という、近況報告を兼ねた生死観のお話でしたw
また、何か書きたくなったら書きまーす(・∀・)